(記者/許暁青、呉宝澍、仇逸)中国上海市の上海海洋大学魚類研究室首席顧問の伍漢霖(ご?かんりん)教授(85)には今年の春、格別の思いを寄せている人がいる。一衣帯水の隣国の古い友人――天皇の位を譲ったばかりの明仁上皇だ。
4月中旬に上海海洋大学軍工路キャンパスで記者と待ち合わせた伍教授は、手提げかばんから2つに束ねた年賀状を取り出した。1984年から2019年まで、ほぼ毎年1通。これらは全て、教授が明仁上皇と魚類研究をめぐって議論を重ねた証といえる。
1979年春、福建省のアモイでハゼの研究をしていた伍教授は、英語の論文に付記されていた連絡先の住所を頼りに日本に手紙を書き、エアメール用の封筒に入れた。宛先は東京の赤坂御所、「明仁 様」と漢字で書いた。
伍教授は当時、「ダメでもともと」という気持ちで、海外でハゼの研究論文を何度も発表している日本の専門家に学術的な質問について教えを請いたいと考えていた。「明仁」氏のもう1つの身分のことは全く知らず、ましてや2週間後に返事を受け取るなどとは夢にも思わなかった。
伍教授の記憶によると、「明仁」氏から初めて受け取った返事の内容は非常に簡潔で、主にハゼの種類や基礎知識について書かれていた。伍教授は「当時はインターネットもなく、図書館の資料も少ない時代。情報は限られていた。あの時代、海外から返信を受け取り、そこから多くの知識を得ることに、とてつもなく興奮した」と語った。
しばらくして、伍教授は親しい友人の勧めもあり、ハゼ研究の専門家兼「ペンフレンド」――「明仁」氏のことを調べ始めた。「そこでようやく『明仁』氏が日本の皇太子だったと知った」。
伍教授は「最も頻繁に連絡を取り合っていた時は、1年に3~4通の手紙をやりとりした。内容はいずれもハゼの研究についてだった」と振り返った。
2019年の春節(旧正月)前に皇居から発送された年賀状。封筒には英文で皇居と印刷されている。(4月17日撮影、上海=新華社記者/呉宝澍)
伍教授が1984年の春節(旧正月)に受け取った年賀状を見ると、真っ白いカードの左側には「Season’s greetings With best wishes Akihito」と手書きの英語のメッセージが書かれ、右側には当時の明仁皇太子ご夫妻とお子様との家族写真が貼られていた。
伍教授は1989年春、当時の明仁天皇の招きで、日本で2カ月間の学術訪問を行った。この間、伍教授は幸運にも、赤坂御所で天皇と面会し、さらに御所内の研究室で研究を行う機会を得た。伍教授は今でもこの時のことが忘れられないという。
伍教授は「このような学術交流は、1980年代の中国魚類学者にとって非常に重要なものだった」と述べ、「私たちは日本語や英語で交流した。どうしても言葉で表現できない時は、漢字を書くと天皇は意味を理解した」と振り返った。
伍教授が編さんした書籍「中国動物誌」で引用された、明仁天皇(当時)が描いた手書きの絵。(4月17日撮影、上海=新華社記者/呉宝澍)
伍教授は1989~2009年、何度も日本に学術訪問し、当時の明仁天皇に12回面会した。手厚いもてなしを受けたばかりか、伍教授が編さんした書籍「中国動物誌 硬骨魚綱 スズキ目(五) ハゼ亜目」でも、天皇から協力を得られたことに深く感謝している。
単なる偶然かもしれないが、二人は年齢が近く、同じ魚類を研究している。伍教授が数カ月年下に過ぎない。伍教授は魚類学の角度から次のように述べた。天皇が発見し命名したハゼは20種類を超え、伍教授も自らの研究によって発見したハゼは10種類を超える。研究を通じて発見した新種に命名することは、一種の誇りであり、魚類学者の自然を愛する気持ちの表れでもある。
高齢の伍教授には少し残念に思っていることがある。天皇が1992年、中国を訪問した時のことだ。当時、上海視察の予定はびっしりと組まれ、伍教授が当時勤務していた上海水産学院(現在の上海海洋大学)魚類学実験室で中国のハゼの標本を見学することはかなわなかった。
伍教授は「天皇が『引退』後に、魚類学者として上海を訪れる機会があるかもしれない」と密かに期待を寄せている。大切に保管してきた手紙や年賀状に触れながら、天皇が毛筆で書いた祝福の漢字――「賀正 明仁」を深く心に刻んでいる。
(出典:新華社,2019年5月2日)
元のリンク:https://this.kiji.is/-/units/399395313829463137